私は怒っている。いや、ごめん、怒っていない。なんというか…私は映画『ジョーカー』が放映される前にある違和感を感じていた。
この違和感…最初は「どうせ映画『ジョーカー』だけを見てジョーカーを知った気になるようなにわか勢が増えるだけでしょ?この作品はもっと肩の力を抜いて見るもんだよ」と、クソうざいマニアが言いそうな事だと思っていたがどうやら方向性が違うようだ。
確かに映画『ジョーカー』が放映される前にこの記事で「あなたの気持ちがジョーカー像を作っている」と書いたが、それはジョーカーシリーズの中でどのジョーカーが好きか…?という性格占い的な書き方で、ジョーカーそのものの本質を決定させる内容ではない。
様々なジョーカーに関する感想を見ていると、どうやら「ジョーカー=貧民層の代表」や「貧困のおじさんに銃をもたせると無敵の人になる」など、まるでジョーカーの人格の主幹が貧困にあるかのような評論になっている。
おいおいおい、ちょっとまて。確かに貧民層がジョーカーの一つの事件(ウェイン社社員の射殺)に触発されてデモや暴力行為・破壊活動が起こった訳だが、ジョーカー自体は貧困のみがキッカケでジョーカーになったわけじゃないぞと。アーサーにとって「一生懸命に生きてきたけど全部意味無し。人々を笑いの渦に巻き込ませたかったけど中々できず。でも悲劇1つ(射殺事件)で人々を熱狂させることができる。これをジョークと言わずなんというのだ」という人生に対する滑稽さからジョーカーになった訳だ。
だから今作『ジョーカー』に対して言えば、「確かに一時的に貧民層の代表っぽくはなったけど、貧困はあくまでキッカケであって、ジョーカーの本質が決まるものではない」と評論したい。
ジョーカーの本質とは?
様々な作品によってジョーカー像が違うが、共通したジョーカーの本質とは「まるでジョークの用に人の人生を軽々しく扱う(命を奪う)」というところでは無いだろうか。(ごめん、TVシリーズやオリジナルコミックに関しては自信が無い(笑)あまりにもコミカルな性格をしているから)

ペンギンの傘とこぶしで小突きあっている二人(笑)トラウマなど抱えてなさそう(笑)
名声・成功・富…人々から羨ましがられる生き方も命が失われるだけで台無しになってしまう。その一瞬のせいですべてがフイになってしまうのだ。これはよくよく考えると奇劇だ。質の悪いジョークだ。とジョーカーは考えている。
人を殺す時、人を死なせる時にしょうもなければしょうもないほどジョークの質はもっと上がる。
どうしようもない選択を迫るジョーカーの嫌らしさ
TVゲーム「アーカム・オリジン」ではジョーカーがとある2人を人質にとる。一方はバットマンを殺そうとするが一方は捕まっているだけ。バットマンが助かりたければ
敵意ある人質を殺す必要がある。戦闘の時間切れは捕まっている方が殺される。無抵抗ならバットマンが殺される。いずれにせよ、バットマンを含め誰かが一人殺されるのだ。

バットマンは人を殺さない(シリーズ通して一貫した設定)。それを知っているジョーカーはこのシーンを本当に嬉しそうに見る。さぁ、バットマンよ、誰を殺す?今まで積み上げてきたバットマンの努力を一瞬でフイにできてしまうこの人質バトル。ジョーカーにとっていずれの結末も面白い。質の悪いジョークだ!
とこのように1つのエピソードをとってもジョーカーが貧困から脱出するために破壊活動や人殺しなどを行っているとは思えない。ジョーカーは楽しみながら人を殺めているのだ。
社会風刺を効かせたとしても
さてツイッターのハッシュタグでは「ジョーカー衝撃」とあるが一体何が衝撃なのだろうか?
おそらく世論として正しい答えは「極限までどん底に落ちた人間が狂気に覚醒するタイミング」とか言った感じだろう。割と日本の社会風刺にもなっている事が話題を生んだ原因でもあると思う。
結婚もせず、年老いた片親を介護しながら、仕事も目も出ず、ひょんなキッカケで仕事が失われ…そんな人間が拳銃という武力を持つととんでもない怪物を生み出す…という誰しもわかりやすい破壊的なストーリーが、まるで現在の日本の社会問題にも当てはまる描写になっているがちょっとまってほしい。これはあくまでジョーカーが生まれたキッカケをストーリーにした映画であって、別にすべての人にアーサーと同じ人生を共感してもらいたい為に作った映画ではない。それだったら別に題材をジョーカーにする必要は無いのだ。
ではなぜあのような救いようの無いストーリーにしたのか?答えは簡単である。それは本線であるバットマン作品に登場するジョーカーにつなげる為だ
並大抵のストーリーではジョーカーは生まれない
先に行っておくが、私はこの映画の出来は最高だと思っている。なぜならジョーカーになるキッカケがこれ以上考えられないからだ。
ティムバートン版バットマンのジョーカーは、ギャングのトップ2にも関わらずボスから裏切られ、よくわからないコウモリ野郎にボコボコにされて顔がひしゃげてしまい元の生活が送れなくなってしまい精神に以上をきたしてしまった事でジョーカーになった。このストーリーでもジョーカーになったキッカケとして十分納得できる内容だ。(ジャック・ニコルソンの演技力が説得力を高めたことも手伝っているであろう)
とにかくティムバートン版のジョーカーでは、元々ジョーカー素質を持っていたジャック(ギャング時代の名前)が人生の転落をキッカケにジョーカーになるストーリーだ。ジョーカー素質を数値にすると40→100になったという感じだろう。
しかし今作『ジョーカー』では、明らかにジョーカー素質が5ぐらい(病気持ちでやや貧民層だった事から…)のスタートなので、相当なキツイ事件が起こらない限りジョーカーに転身するとは思えない。で、実際のところ今作『ジョーカー』ではジョーカー素質5→39ぐらいの転身では無いかと思っている。
なぜ39ぐらいなのかは、有名なコメディアン「マレー」を殺害した後震えを抑えようとしており、まだまだ研ぎ澄まされる狂気が身についていない事からレベル39と判断している。
そう、今作『ジョーカー』だけでジョーカーの完成がされたわけではないのだ。
映画『ジョーカー』だけを見てジョーカー像を決めつけるのはまだ早い
今作『ジョーカー』でバットマンやジョーカーに興味を持ったのであれば、ぜひ他の作品のジョーカーを見ていただきたいと思っている。
ジョーカーには様々なストーリーや狂気性がありすべて魅力的だからだ。それを持ってジョーカーというヴィランの共通性を確かめることができる。
残念ながら今作『ジョーカー』を見ただけではバットマンの宿敵ジョーカーは語れないだろう。いや…別に語る必要無いのだが、ジョーカーという世界が誇るヴィランに興味を持ったのであれば、それはあなたの新たな趣味や心情の冒険となるだろうと思うからやはりぜひ他の作品を見ていただきたいところである。
今作『ジョーカー』を見て「やっぱ日本でも貧富の差は激しいから、ジョーカーみたいなリーダーは必要だ!!」とか「ジョーカーのような上級国民に喝を入れるリーダーがいるといいなぁ」とか「この映画は、まさに今の社会情勢を表している…」と評論する方がいたら、それはあなたの欲望をジョーカーに背負わせているだけだ。確かに映画『ジョーカー』ではそのような評論が生まれるが、完成されたジョーカーはそんな貧困や社会情勢など気にしない。いかにに奇劇的に人を殺せるか。他人の人生をいかにしょうもなく終わらせるかに命をかけている。
また、そういった貧困からの脱出でジョーカーをリーダーに慕うような奴らはバットマンの作中でもあっさり殺されてしまう。ジョーカーにとって部下すらもどうでもいいし、あっけなく終わればそれでいいと思っているのだ。
とりあえず、ジョーカー像を調和するためにコレを見ておけ
とはいえ、今作『ジョーカー』はかなり深いストーリー性でありジョーカー誕生を物語るに十分なことに間違いない。今作だけに限って言えば、「貧民層のヒーロー」という評論が生まれるのも頷ける。それほどジョーカーの闇が深い。心情が悲しい。救いようが無い。負のオーラが漂う作品だ。
突然だが、今作『ジョーカー』で初めてバットマン作品を見た、という方はぜひその負のオーラを調和してほしい。バットマンには、ジョーカーにはもっと牧歌的な明るい作品があるのだ。その名も「バットマンオリジナルムービー」
私はこの作品を見た時「ああ、別に人間ってのは自由でいいんだ」と思わされた。ダークナイトでヒース・レジャー演じるジョーカーがバットマンの「ジョーカー」だと信じてやまなかった自分に衝撃を与えられた作品だ。これこそジョーカーの衝撃だ。本当に騙されたと思って見て欲しい。
この作品に登場するジョーカー、そして他のヴィランは真剣に悪党をこなそうとしている。しかしどこか残虐性や凶暴性は感じられない。一方のバットマンサイドでも、真剣に町の平和を守ろうとしていない。いや、しているのだがどうにもしているようには見られない。しかしそれでいい。コレもまたバットマンなのだ。ジョーカーなのだ。
そして驚くことにこの作品は人生を豊かにしてくれる。仕事で疲れているあなたの心を癒やしてくれる。ああ、真面目に生きてきているけど、たまにはこのバットマンやジョーカーのように面白おかしく手を抜いて(?)もいいんだ。一生懸命やってても周りは楽しんでくれるかもしれない。そういう生き方をたまにしてもいいんだ。という気持ちにさせてくれる。
ジョーカーの闇が深ければ深いほど、「バットマンオリジナルムービー」の調和力が高くなるだろう。本当に疲れた時、週末に是非見てほしい。
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